2011年01月25日

「ソーシャル・ネットワーク」

実は金曜日に観たんですね。もう4日もたっちゃった....

新宿バルト9です。

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綺麗で、天井が高く、ロビーもそこそこ広めでいいのですが、ポップコーンの味はイマイチ。
ポテトにごぼうがまじってるんですが、これはまだましだった。

椅子はそこそこ良く、フードを買うと椅子にセッティングするプレートが付くので良い。
音響もよかったです。

さて、作品ですが、愛しの(久しぶりの)デビッド・フィンチャーだし、ジェシー・アイゼンバーグだし、楽しみにしていたのですが、さすがに4日も立つと印象が薄れるなあ.....

製作総指揮をケビン・スペイシーが務めてるんですが、「ラスベガスをぶっとばせ!」といい、なんかこう、エリート学生モノが好きなのかなw

さておき、アカデミーにノミネートされるだけあって、見ごたえのある作品です。特にジェシー・アイゼンバーグの演技がすごい。
「ほんとにこういうやつなんじゃないか?」という感じなんですが、ただ、こういった強烈な、おナード役は「ゾンビランド」で一発かましてるので、こっちは観ていてなんだか落ち着くというw

有名俳優は極力排する(特に学生側は)ことによって、ドライな現実感が生まれています。

この作品のテーマは、冒頭とラストで描かれていますが、皮肉なのはこれだけ世界規模の「友達づくり」サイトの生みの親が、「友人」と呼べる人間を持っていないこと。数人はいましたが、このFacebookの開発とその後の起訴沙汰で、すべて失います。

この作品がオスカーのいくつかを得るかどうかはわからないけど、いまいちパンチに欠けてしまうのはなんだろう。

ノンフィクションものには、ある弱点があって、それはどうしても登場人物を自由にすることができないということ。客観的に描きやすくなってしまうため、こういったものは大抵、観客の感情移入の密度が得にくい。もし得られている場合は、フィクションの要素をかなり加えられている...ということになる。

そういう意味で、観客がどうしても主人公のマークを客観的に、距離をおいて眺めてしまう構成になってしまう。なによりマークは感情らしいものはあまり外に出さないし、悩んだりもするのだろうけど、それ自体は作品の中ではあまり描かないしわかりにくい。ただ不思議なのは、彼がなにを考えているのかは、ときたまとても良くわかるように作られていることだ。(基本的に、彼は「なにを考えているのかわからない人間」として描かれているのに)

これはジェシー・アイゼンバーグとデビッド・フィンチャーのすごさだろう。

ただ、ドラマティックという意味では、マークよりはるかにまわりの人間の方が濃く、まだなんとか観客は距離を感じずにいられる。

マークに関しては、「なにか面白い動物」を眺めているような状態で始まり、そして終わってしまうのだけど、相棒だったサベリンやウィンクルボス兄弟の方がまだ、見ていて熱い。

動物はなぜ面白いかというと、行動が予測不可能だからなのだが(彼と動物を比較するのも皮肉な話だが)、そういう意味ではマークの行動は予測不可能だ。しかし、そういう気を持たせておいて、マークは結局あまり行動しない。したのはブログによるエリカの中傷とフェイスマッシュの起ち上げ、そしてFacebookの開発と、エリカに再会したときに声をかけたこと、そして最後に、エリカに友だち申請をしただたけだ。

実はこれらの行動はとても重要で、作品のテーマからいったらこれで充分なのだが、もう少しマークの視点をわかりやすくした方が、最後はグッときただろう。

しかし、作品的にマーク視点を構成しづらかったのだろうと思う。こういう場合は、まわりの人間を使うのだが、さっき言ったようにノンフィクションは登場人物を好きにできない。

唯一、マークをよく眺めている(つまり、観客がその人物を通してマークを見つめる)と思われるサベリンも、あまり機能はしていない。彼は調停シーンで最も、回想とモノローグによってマークを語るのだが、彼を充分に使えない理由は、やはりサベリンが実在の人物だからだ。(本物のサベリンは原作者の取材も断っている)

そこでさすがにこのままでは、マークと観客の距離が遠すぎるということで、制作側はマークを見つめる人物を、調停に参加している新米女弁護士というかたちで創作している。

この彼女の存在はかなり重要で、彼女のおかげで、観客は最後の最後、マークに集中することができる。


でもやはりあえて言いたいのは、どこかでもっと、観客がマークの視点に立つ(もしくはなにかを共有する)演出をなんとかして入れるべきだったと思う。ワン・シークエンスだけでもいい。

この作品のポスターはマークのドアップなのだけど、そのマークをもっと中心に据えて、そのまわりを世界がまわるといったくらいの描き方でも良かったと思うし、そしてそれは充分可能だ。
アイゼンバーグのおかげでマークはしゃべらなくても充分魅力があるし、別に彼を客観的に見下ろす手法にしなくても、観客は彼の孤独はよく理解できる。


わかりやすい話、面白い映画というのは、観終わったあともあれこれと考えしまい、たとえば想像の中で「自分があの主人公だったら....」とか、「あのあとどうなったのか.....」とか、いろいろ想いを巡らせるものだ。つまり、その「世界」からなかなか観客が抜け出せないということで、それは「その世界に引き込まれた」ということだ。
この作品はそういう類ではなく、観終わったあとはもう忘れてマックでお茶して帰る、って具合だ。少なくとも、僕個人的には....

デビッド・フィンチャーということも考えると、なんだろう、フィンチャーでいつも得られる「新鮮さ」や「ゾクゾク」感がなかったのも不思議だ。
失礼な話、誰が撮ってもこうなりそう...という感じに仕上がっちゃってる気がすんのよ....

そういや、イギリスのボートレースのシーンで、やたら被写界深度を浅くして撮ってたのはなんなんだろう....w


ただ、この作品の興味深い点は、ノンフィクションであるにもかかわらず、その出来事はほんの数年前.....ということ。
ノンフィクションというのは大抵、戦時中のことだったりとちょっと昔のことが多いのだけど、これだけ最近のことを取り上げる作品も珍しい。
実在している人たちからしたら、数年前に自分がしたことが映画化されている....つまり、まさに今の自分を俳優が演じて見せている、という不思議な気分だろう。

これは今の時代ならではの現象だねえ。IT社会の増幅によって、こういった現象は今後も加速すると思う。

Facebookはこないだ、アクセス数でGoogleを抜いて世界一位になり、ちょっとニュースにもなって実に旬だし、「今」作らなければ価値がないというか、"評価額"も下がっちゃうねw


だけど、この作品がいくつオスカーを取ろうとも、100年後の「名作100選」などには名を連ねないとは思うなあ。


ただ、「今」という時事性とテーマにおいては、間違いなく傑作だろうと思う。


そしてもうひとつ。これはレビューとしては禁じ手なんだろうけど....

ジェシー・アイゼンバーグはたしかにすごい。すごいが、ミス・キャストだったかも知れない。
マークを、たとえば若い頃のマット・ディモンがやっていたら.....名作になっていただろう。


ジェシー・アイゼンバーグは黙っていると、そのまま閉じてみえてしまうが、マット・デイモンは黙っていても開いている俳優なのだ。


つまり、映画はたとえどんなものだろうと、どこかで人間に肉薄しなければつまらないということ。
posted by ORICHALCON at 12:33| Comment(1) | TrackBack(0) | Cinema